東日本大震災の記録(その1)

2011年3月11日

2011年3月11日。私はオフィスで「その瞬間」を迎えた。私にとっての「東日本大震災」が始まった。

日経の緊急表示エリアは2段階。

揺れの最中、岡山の実家に住む母に、父の実家である宮城県の大崎市に住む叔父夫婦に連絡を取るように伝え(叔父夫婦とはその時以降数日電話が繋がらなかった)、NHKのTwitter担当者の英断で解放されたUstream中継を通して、三陸海岸に到達する津波を「これはマズい。絶対にマズい」と何度もつぶやきながら見つめることしかできなかった。

P3125953

夜になっても交通マヒの状況は変わらず、結局その日は帰宅難民となってしまい、検討の結果自宅まで約40キロの道のりを徒歩で帰ることにした。

八重洲口付近の古いビルの窓ガラスや壁面タイルの落下に怯えながら、同じように徒歩で帰宅を試みるサラリーマンの波に流されながら自宅を目指した。結果、途中からバスとタクシーを乗り継ぐことができ、11日中に自宅に戻ることができたのは幸運だった。

自宅に戻るとCDラックが倒れていた。これを元通りにするだけで半日以上かかった。そしてテレビを付けると気仙沼が燃えていた。「海が燃えている」と現地でレポーターが叫んでいた。

余震、放射性物質、計画停電

震災後しばらくは自宅待機になったこともあり、福島第一原子力発電所の事故関連の情報をひたすら集める日々が続いた。

Googleの取り組みに感動する反面、本当に欲しい「自宅圏3キロの情報」が手に入らず、中央発信型のウェブサービスの課題を痛感した。そして、Twitterに次々とスターが現れ、自治体も公式Twitterを立ち上げ、Twitterが急速に社会のハブと化して大いに驚かされた。あとは、相変わらず(使い手を選ぶが)2ちゃんねる、およびそのまとめサイトは貴重な情報源として機能した。

エスカレーター停止中@柏の葉キャンパス

また、自宅の暖房器具は電気を使うオイルヒーターしか無かった為、節電が過ぎて風邪をひいてしまったり、「計画停電」のたびにポットにお湯を貯めたり、おにぎりなど作り置きの食事を用意しておくなど対応に追われていた。結局1度も停電になることはなかったが。

また、普段からラジオ(ポッドキャスト)中心に生活していたことが奏功し、ラジオ×ネットでかなり効率的に情報を得ることができた。

ラジオでの久米宏の現地からの声を吸い上げ、それを瞬時に咀嚼・再加工して伝える神業に興奮し、日曜天国の安住アナのエピソードには心が救われた。

中でも、TBSラジオ「Dig」での神保哲生氏、崎山敏也記者による情報の定点観測的取得は、自分にとって最も欠かすことができない情報源だった。

東北へ

そうこうして3月が終わり、4月に入るころから再び仕事が通常モードに戻った。

ただやはり、誰もがそうであったように、大きな不安に半身を冒された状態で仕事をこなしていた。そんな中で募金をして物資も送ったが、阪神淡路大震災時に募金以外何もしなかった後悔から、何とか現地の手助けになりたい、マスメディアのキャパシティを超えたこの震災の「姿」を自分なりに把握しておきたいという気持ちが高ぶり続けていた。

そして、GWにボランティアに行くことに決めた。初めての災害ボランティア活動ということもあり、勝手が分からず不安だった為ツアーを利用することにした。

だが、肝心のツアーがどれも満席で申し込むことができない。そして、「被災地では個人ボランティアの受け入れを見送ることにした」という報道が流れたことで、さらに申込手続きは困難を極めた。

しかし、東京ボランティアセンターの運営する「ボラ市民ウェブ」というサイトにひょこっと表れたツアーに運良く申し込むことができ、私の災害ボランティア活動歴がスタートした。

4/30~5/2 岩手県釜石

初めてのツアーは、2泊3日の行程での岩手県釜石市での活動を目的としたツアー(ツアーに関する詳細なブログ記事)。4月30日(土)の朝、集合場所である東京駅鍛治屋町駐車場に停車するバスに参加者達は集まった。

KICX3217

花巻温泉にある「幸迎館」という高級温泉宿が主催するツアーと思って参加したが、東京在住の女性個人で催されたツアーであった。幸迎館は前年旅行で花巻温泉を訪れた際に「次に利用するならここ」と決めていた宿だったこともあり、何とも運命めいたものを感じながら東北へと向うバスに乗り込んだ。

東北道は自衛隊の車輌が多く、どの車もスピード違反や無理な追い越しは決してしなかった。外から表情は見えないが、おそらく誰もが緊張と使命感に帯びた表情をしていただろう。

KICX3237

そして、初めての「被災地」との対峙。どうだったかと言えば、私は現実のものとして受け止められなかった。町中に漂う魚介類の腐臭。新日鉄釜石の駐車場に十数メートルの高さに積み上げられたガレキ。そして町中に「敷き詰められた」生々しい濡れた瓦礫と呼ばれる人々の生活の跡。

ボランティア活動の内容は、釜石市内の「かっし川」の河原の清掃作業。ハードなヘドロの掻き出し作業などを想像していた身としては、少し拍子抜けしたが、蛆虫がうごめく魚や鳥の死骸をいくつも処理したりと、今思えば肉体より精神面でハードな体験をしていた。活動後のビールが本当においしかった。

DSCF0269

「被災地」を体験でき、極微力ながら現地に貢献できたこと以上に、このツアーを通して素晴らしい方々と出会えたことをが何よりの収穫だった。彼らと出会って半年以上経つが、当時はこれほど濃い関係が継続するとは予想もしなかった。

おなじ時期に、同じ位被災地のことを真剣に考え、何かしなければならないと焦燥感に駆られ自ら足を運ぶことを決断し、過酷で濃密な時間を共にしたことを考えれば、それは不思議なことではないのかもしれないが。