ジェフ千葉 – 単なる残留争いではない理由

スタジアムに駆けつけた1万4,000人の千葉サポーターが、そして選手の誰もが何故これほどまでに何とも言えない涙を流すのか、そこには単なる1シーズンの残留争いだけでは語りきれない約4年間に渡る「前社長淀川隆博氏、そして川淵三郎前サッカー協会会長との戦いの物語」がありました。

見ての通り2005年オフシーズンからのエピソードを書き連ねてあるので、要約してみますと、

  • 淀川社長が就任
  • サッカー専門誌の記事によると、クラブの選手&スタッフを「古河電工サッカー部」の部員程度にしか思わず、プロとしてではなく古河電工部下社員として接していたという。
  • 自身の結婚式の仲人を勤めた元先輩社員の川淵元会長に、ほぼ無条件でイビチャ・オシム監督を日本代表監督として譲り渡す。
  • それ以降、主力選手、チームスタッフがクラブに対して不信感を持つようになる。
    具体的には祖母井GMの退任と阿部勇樹の浦和レッズへの移籍はその要因が強い。
  • アマル監督が就任すると、露骨な現場介入を行うようになる。中には、ハーフタイム中にロッカールームに怒鳴り込み、「オマエらゼロか。ゼロの人間か。」と選手たちを怒鳴りつけることも。
  • 嫌気をさす、またはクラブを愛する一部の主力選手が、クーデターを試み移籍を条件に社長交代を訴えるも失敗に終わる。同時に6名の主力選手(日本代表経験選手)がチームを離れる。
  • 主力の大量離脱にも関わらず、チーム目標を「アジアを目指す」と定める。
  • 淀川社長が実質的に解任され、新社長として初のJR東日本出身の社長となる三木社長が就任。
  • 三木社長は、現場に全てを任せ、社長を中心としたフロントはスポンサー&親会社から予算を取ってくる努力を徹底、チーム戦力補強を実現。それに伴いチームの戦績も向上。
  • アマル監督を批判しチームを実質的に解雇されたストヤノフが残留のライバルの東京Vの中心選手を退場に追い込み、2試合の出場停止に(その2試合の勝ち点は結果的に0)。間接的に千葉をアシスト。
  • 前回の対戦で今野に倒されて得たPKを外したレイナウドが、最終節で同じく今野に倒されて得たPKを決め、2点ビハインドからの逆転劇を演出した。

つまりこの残留争いは、淀川前社長の呪縛との戦いでもあり、ようやく選手・スタッフ・サポーターがその呪縛から解き放たれた物語でもあるのです。

2005年1月

  • 茶野、村井の両選手がジュビロ磐田へ移籍したことを淀川元社長が「お前たちの能力が低いからだ」と攻め立てたことを受け、江尻コーチ(2009年よりコーチに復帰)、小倉コーチ(現日本代表コーチ)がチームを離れる。

2006年5月

  • 淀川社長(当時)、サッカー協会川渕会長(当時)に、イビチャ・オシム監督を代表監督として引き渡すことをアウェイの横浜Fマリノス戦観戦時に密約。
    川淵三郎 『虹を掴む』より

「そんなにうれしいのか」と聞くと、「そりゃそうですよ。だって、ここで二つ負けて帰ってきたら、 もう川淵さんのことだから、絶対に(イビチャ・)オシムを代表にくれと言うに違いないと思ってましたもん」古河の後輩のこの答えには、本当に笑った。つい私も気が緩んで、 「おまえ、ようわかっとるじゃないか」 ふたりで大笑いになった。 淀川は冗談めかして言ったが、私からそういう要望が来たら、受ける覚悟をしていたのだと感じた

2006年6月

2006年7月

2006年12月

2007年1月

  • チームの精神的支柱であった坂本將貴がアルビレックス新潟へ放出。強引に若返りを図るフロントとアマル監督の意向が一致しての移籍劇。その後2008年シーズンに坂本は千葉へ復帰。
  • 「私が社長の間は絶対に移籍させない」と阿部に対し強硬な態度を淀川元社長が取ったことが決定打となり、阿部勇樹が浦和レッズへ移籍

2007年6月

2007年11月

2008年1月

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