東日本大震災 ボランティア活動の記録@宮城県南三陸町 2011.12.10

Minami-Sanriku-Chyo 2011

「被災地復旧」と「被災地復興」。この2つが交差する南三陸町で漁業支援をお手伝いしてきた。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

7月から何度か素通りだけして一度も活動することができず、ずっと心に引っかかっていた南三陸町。ようやくこの場所で活動する機会を得ることができた。

南三陸町を訪れたのは震災からちょうど4ヶ月目の7月11日。眼下には数日前に津波が襲ってきたとしか思えない光景。すべてがなぎ倒され、生活の跡が色濃く残る生々しい瓦礫と散乱する流木が360度果てしなく広がっていた。私には絶対に受け入れることができない光景だった。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

それから5ヶ月。ひさびさに訪れた南三陸町は、さすがに5ヶ月前とは異なる姿を見せていた。初めて南三陸町に訪れた他のツアー参加者は、復旧の遅れに驚嘆していたが、私の目にはめざましく復旧しているように映った。だけども南三陸町では、他の被災現場では既に見られなくなった種類やサイズの瓦礫がまだそこかしこに散乱し、この土地の復旧の遅れと震災時に被った被害の甚大さが深刻なものであったことを物語っていた。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

この日私たちに依頼された活動は漁港でのホタテやワカメ養殖の漁業復興支援。
養殖の仕掛けが沖に流されてしまわないように1つ60キロの重りを仕掛けにいくつもセットするのだが、その重りを小石を袋に詰めてひたすら作っていくことが主な作業内容だ。具体的な数は教えられなかったが、この漁協の漁師さん達には1,000個もしくはそれ以上の重りが必要な様子だった。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

本来南三陸町はボランティア作業中のカメラ撮影は禁止されているのだが、この日は漁師さんたちの許可を得て写真を撮らせて頂いた上に、「こんな所よりあそこの小屋の中でホタテの仕掛けを作っているから、あの中を撮ってきな」と言っていただき、御好意に甘えテントの中の作業場の様子を写真で撮らせていただいた。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

小屋の中で行われていたホタテの種付け作業は、非常にたくさんの年配の方を中心とした人たちが、丁寧に丹念に仕掛けを作っている姿を見て、日本人は本当に働くことを貴く思い、その矜恃がここにいる方々の明日を紡ぐ原動力になっていることを知り、心の底から感動した。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

今回のツアーに参加した動機として、ひさびさに手応えのある瓦礫除去作業や満杯の側溝と対峙できるという「復旧作業」を求める自分がいたが、それは心のどこかで「いつまでも弱者で在り続ける被災地」を求めるという危険な発想で、「復興作業」を通して「仕事」を手にし、毎日の糧を得ることの踏み台になれることは、震災から9ヶ月経ったこれからは非常に大切なことだと感じた。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

南三陸町の景色が非常にゆっくりだが確かに変化しているように、「復旧フェーズ」は終息を迎え、1,000年後まで続く「復興フェーズ」が勃興していくのだろう。

Minami-Sanriku-Chyo 2011

被災地復旧とはマイナスをゼロに戻すこと。必要なのは、物資やボランティアなど人道的な支援。被災地復興とはゼロからプラスに転じること。必要なのは、地元企業の復活と存続、雇用創出、そして収益。

女川の蒲鉾屋「高政」さんのこの言葉を忘れずに、来年も自分にできることを自分なりにがんばってみたいと思う。今年の様にはいかないだろうが、来年もがんばったと胸を張れる年にしたい。