久之浜奉奠祭花火大会 2011.8.27

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

1997年9月23日。ボスニア紛争停戦の約2年後、戦争の爪痕がまだ深く残る「廃墟」サラエヴォの地で、U2はPOP Mart Tour の一環としてライブを開催した。POP Mart Tour は堕落した消費社会の象徴をテーマとしたマクドナルドの黄金のアーチを模したステージが目玉のツアーであった。
つまり、数多くの犠牲者を産み厳粛な雰囲気を求められるはずのこの土地に、最も相応しくないライブだった。その上、たしか無料のチャリティーライブではなく、(非常に低価格に設定されてはいるが)有料ライブだったと記憶している。

だが、サラエヴォの市民はこれを歓迎した。なぜならそれこそが彼らの求める「日常」だったからだ。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

2011年8月27日土曜日。私は福島県いわき市久之浜の奉奠祭花火大会に参加した。

復興支援活動に従事する地元の若者たちで結成された「北いわき再生発展プロジェクトチーム」が主体となってこの奉奠祭花火大会は開催された。地域の有力者の呼びかけではない。地元の兄ちゃん達が中心となってこの花火大会は開催された。彼らが考えなければ、彼らが動かなければ、彼らが働きかけなければこの日は「特別な日」になることはなかった。「被災地」と呼ばれるこの場所に2,000発の花火が打ち上がることはなかった。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

彼らの願いは、この地震・津波・火事・放射性物質の四重苦が襲ったこの土地で2,000発の花火を打ち上げることで、震災後避難所や仮設住宅など様々な場所へと散らばった人びとをもう一度この地に訪れてもらい復興の足掛かりにしようとするもの。結果的に約8,000人の人がここ久之浜を訪れた。福島第一原子力発電所から約30キロ、放射能の立ち入り禁止区域ギリギリのこの土地に震災後初めて多くの人が訪れた。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

後日、地元の方から「震災後、催し物が無かった子供達に笑顔に戻ったとご両親が感謝していた」と教えていただいた。

以前、ラジオ(おそらくTBSラジオ「Dig」)で、震災以降子どもたちは周囲の大人達の空気の変化に敏感になり、いわゆる「子どもらしさ」が影を潜めるようになったと耳にした。
この奉奠祭の花火やステージでの演奏や出店やお世辞にも上手いとは言えないストリートパフォーマーやボランティアがアイデアを出し合って実施した催しや離ればなれに暮らすようになった友だちとの久々の出会いが子ども達の表情に明かりを灯したのだ。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

開催前、この花火大会に対して「いま必要なのは花火大会ではないのではないか?」という反対の意見を目にした。確かにこの場所で、特に子どもが生活を送ることは非常に難しい判断だ。
だがこの日、子どもたちの表情に咲いた笑顔を見れば、誰が良い判断を下したのかは一目瞭然だろう。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

冒頭でのサラエヴォのエピソードからも分かるように、復興は「日常」を取り戻すための道のりである。

それ(日常)は決して「衣」「食」「住」だけで成り立っている訳ではないことを忘れてはならない。「娯楽」とひと言では括れないくだらないやり取りや、時には不謹慎とも取られる行動によって私たちの「日常」は成り立っていることを忘れてはならない。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

そして最後に、震災から5ヶ月が過ぎ避難所が次々と閉鎖され、ボランティアに求められるニーズも変化している。そのような状況の中で、篤志家とも言えるヘヴィ・リピーターは相変わらず一部で、「自分には関係無い」と決め込む無関心層の心に変化は訪れない。

状況の変化に応じて立ち止まって考えることも大切だが、歩みを止める必要はない。

2011年8月27日 久之浜奉奠祭花火大会

この日「北いわき再生発展プロジェクトチーム」のメンバーが成し遂げた子どもを中心とする「ひとびとの表情に笑顔を咲かせる」ことを1つのモデルケースとして見るならば、たとえ無駄に見える作業でも喜んで多少お節介気味になりながらも手を貸すことが重要だ。

久之浜 奉奠祭花火大会 2011年8月27日

「日常」を取り戻す為の旅。わがままで無駄だらけな自らの生活を顧みれば、現地の方々に再び「日常」が訪れるために何が必要かきっと見えてくるはずだ。