これまでツアーや個人ボランティアに1人で参加していたが、ようやく9回目にして念願かなって知人5名を連れてボランティアに行くことができた。
活動場所に選んだのは宮城県亘理郡山元町。帰りのアクセスを最優先にこの場所に決めたのだがこれが大正解。メンバー6人全員が満足する有意義なボランティアの旅となった。
亘理郡山元町は宮城県と福島県との県境の町。仙台から国道6号線を通ってちょうど1時間ほどのところにある。東京方面からであれば東北道白石ICを降りてから角田市を抜けて同じく1時間ほどで到着することができる。
旅の計画段階では、福島第一原発から近いこともあり放射性物質の影響を心配したが、この場所もいわき市の久ノ浜同様、常時海風が吹いている影響で放射線量は低いそうだ。
国道6号線を福島方面にまっすぐ南下していくと、右手に平行して続く小高い山の連なりに沿って、どこまでも田園風景が続いていた。天気は晴天で台風の影響かカラッと晴れた気候は本当に最高でドライブとして最高なシチュエーションだった。もっと早くこの場所に観光だけを目的に来たかった。そう後悔しながら目的地の山元町災害ボランティアセンターを目指した。
山元町の災害ボランティアセンターは山元町役場の一角を使用しており、最寄りの公共交通機関である常磐線の線路が流されて運行が止まっている影響もあってか、町役場の駐車場にはたくさんのボランティアの自家用車が駐車していた。ボランティアセンターは規模が小さいながらも活気があり、スタッフ一人ひとりの表情も明るい。現地に着くまでは色々と不安もあったが、それは杞憂に終わった。
受付を行い各自で自分の住所・連絡先を記入し、プレハブ小屋のボランティアセンター内で少し待ち、本日一緒に作業を行う別のチームを紹介され簡単にあいさつを交わした後に車数台に別れてこの日の作業現場に向った。
この日の作業は被災されたお宅のヘドロ除去と除草作業。すでにヘドロは乾いてしまい土とほとんど区別が付かず、水分を含んだヘドロも嫌だが作業をさらに困難にしていた。だが、粘土質の土と違って明らかに砂の割合が高く日に照らされるときらきらと光る。何よりこの数ヶ月はヘドロとの戦いに明け暮れているといっても過言ではないので、姿形を変えようとも私がこいつらを見逃すことはなかった(言い過ぎ・笑)。
一緒にチームを組んだメンバーは、ほとんどが20代前半で、聞けば4月から仕事を辞めて山元町に住み込みで作業に当たっているという。日常生活と平行してこの「お節介活動」を続けていくことをテーマとしている私にとっては、その選択は完全には同意しかねるが正直言って嫌いではない。
若く熟練したボランティアメンバーとの作業になり、少々作業はハイペースになったが、30~40分おきに取られる休憩時に日陰に入り頬にふれる湿気をまとわぬ風が本当に心地よかった。これを経験することができるだけでも、ここまで来てよかったと言えるものだった。
この日は作業しているお宅の主人と一緒に作業をしたこともあって、いろいろと話を聞くことができた。
この辺りは東北地方の中でも沿岸部で冬でも暖かいこと。釣りが趣味でヒラメを釣ってはさばいて刺身にして食べれば最高なこと。
兼業農家で農業と会社勤めを自分の好きなバランスでこなしていること。そして津波が引いた後、自分たちが作業していた場所にはたくさんの遺体があったこと。それを自衛隊が速やかに処置してくださったこと。貨物列車のコンテナも簡単に津波に流されてJRが速やかに回収に来たこと。お宅から見える先頭車両は前方・後方とも線路が切れてしまい、回収の目処が立たないこと。いっそモニュメントにでもしてしまおうかという冗談がよく交わされるということ。
いろいろと話をして、山の方で栽培したというとても大きなスイカを振る舞っていただいた。今年最初のスイカだった。甘さが最高だった。空に山に緑に美味いスイカ。目に見えるものは全てが美しい。放射性物質の見えない恐怖さえなければ心のそこから前向きになれるのだが。
同行したメンバーそれぞれも、山元町のロケーション、ボランティア活動の達成感、そして他のボランティアメンバーや活動先の方など現地で生まれた新しい出会い全てに満足して、多少疲れを見せていたが終始笑顔がこぼれていたように思う。何度も「また来る」と言ってくれたことは私とっての最大の収穫だ。
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