(以下、書いてから思ったのですがかなり言い過ぎ(笑)。改めて読むと前の晩に書いたラブレターを翌朝読んだ時の気分になるのですが、せっかく書いたのでそのまま公開します・笑。)
「普遍的な音を作りたい」と砂原良徳がインタビューで語っている。
60年代の名曲たちが、それこそ普遍化された曲として2010年の現代において今なお輝き続けるのに対して、電子音を取り入れた80年代以降の楽曲は時代を超えられず消費、陳腐化しているのを見ると、電子音というのは何とも「足が早く」扱いの難しい音であると常日頃から考えさせられる。
近年、日本の音楽業界の凋落が事あるごとに取りざたされるが、何のことはないハードディスク・レコーディングにより「楽曲」という粗悪品が街にあふれるようになったからだけの話である。その影響からか粗悪品を流通されることに対して作り手の抵抗が薄まり、業界全体の楽曲のクォリティに対するモラルが落ちるところまで落ちているような気がしてならない。
つまり、日本の音楽市場全体が「痛みやすい」素材や構成の楽曲が世に出ても平気になってしまい、むしろ時間とコストを掛けてそれこを心血を注いだ楽曲やアーティストを「悪」とする傾向にあるような気がしてならない。
そんな日本市場に溢れる楽曲の大多数も「電子音」だが、それらが越えられるのはネットワークとデバイス間のデータ通信だけで時代など到底越えられるはずもない。そもそも現代の日本人の心にすら届いていない。
さて、話を戻すと、ソロでの活動をスタートさせ、というか自身が音楽に初めて触れた時から砂原良徳の楽曲は一貫して「電子音」で構成されているが、このミニアルバム「subliminal」でも電子音でありながら時代を超える奇跡の音が鳴っている(実は前作の傑作アルバム「Lovebeat」ですでに実現してしまっているけれど)。
鳴っているひとつずつの音は、前作やそれ以前の彼のソロ作品で使用されている音と同じように聞こえてくるが、良く耳を澄まして聴くと各音の鳴り始めから消えていくまでの情報量が格段に増えている。さらに各音の1つひとつが慎重に配置され、そうすることで曲全体として非常に緊張感をもった楽曲として成立させることに成功している。ただそれはいたずらに「息苦しい」緊張感ではなく、砂原良徳のパーソナリティーに通ずるカジュアルな一面をもち、強いて挙げるなら名作と呼ばれるミッドセンチュリーの建築作品が持つ緊張感の様と表現できる類のものである。
時代を乗り越えられた電子音楽は、ブライアン・イーノと砂原良徳が愛してやまないYMOしかいない(次点ではケミカル・ブラザーズ)と言い切れるのだが、そのあまりにも大きすぎる存在に永遠に憧れつつも、本人が気付かないうちにとんでもない高みに手が届きつつあるような気がしてならない。アルバムの到着が本当に待ち遠しい。
Subliminal | |
砂原良徳
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