ジェフ千葉の残留と降格を分けたもの 前篇に続き2009年シーズンのジェフユナイテッド千葉を振り返ります。前後編で考えていたのですが、まとまりきらなくて上中下の三編とさせていただくことにしました。
3. リバプールになれなかったジェフユナイテッド千葉
ミラー監督時代のサッカーといえばまずこんなシーンを思い出す。
キックオフの笛が鳴る。センターサークル内で前線の2人がボールに触れ試合が始まる。センターサークル内の2人は一旦ボールを中盤に下げ、後方の選手の間で多少パスを回したところで、1人の選手たいていはボスナーだったが自陣から前線に向けてボールをおもむろに蹴り込む。ボールは緊張感のない放物線を描き相手陣内へと飛んでいく。味方選手と相手選手が共にボールの後を追いかけ、なんとそのままゴールラインを割り相手ゴールキックとなる。そしてスタジアム内にサポーターの深いため息が響き渡る・・・。
ミラー監督がJのピッチで実現しようとしたスタイルは、西部謙司氏がミラー監督本人から引き出した「1-0が理想」という言葉に集約されている。
攻めの局面では「昨季の後半で爆発的な攻撃力を誇った川崎フロンターレは、非常に突破力のあるチームでした。最も成功している鹿島アントラーズも敵陣へ入っていく力があります。素早くゴールへ向かっていく」という相手ボールを奪ってから少ない手数で危険にそして狡猾に相手ゴールを陥れる姿を理想とし、守りの局面ではリアリズムを徹底し失点のリスクを極限にまでゼロに近づけたゲームの入り方をベースとし「素晴らしかったミランのフランコ・バレージのように」的確な判断で危険の芽を摘み取っていく、そんなプレーのイメージを思い描いていたのだろう。
だがジェフの前線には、ジュニーニョもマルキーニョスの様に狡猾でしかも危険な選手は在籍しなかった。最終ラインや中盤の底にも、バレージとまでは言わないが自信を持って的確に危険の芽を確実に摘み取れる選手はいなかった。試合後ミラー監督はよく「インテリジェンスが足りない」と嘆いていたが、おそらくこの「自信に裏打ちされた狡猾さ・的確さ」について監督の(おそらくJリーグ仕様に補正された)理想と現実の選手たちのパフォーマンスとの間に大きな隔たりが生まれてしまった。
結果的にミラー監督時代のジェフは、リスクを賭けた攻めとは程遠いものとなった。両サイドバックはセンターラインを超えてはならないルールが存在するかの如くふるまい、センターハーフの選手はトップはおろかサイドの選手を追い越すことはなかった。その為サイドの選手、例えば深井や谷澤がボールを受けた時の選択肢は、後ろに戻すか、浅い位置からのアーリークロスを「相手DF」目がけて入れるか、玉砕覚悟でドリブルで突っかかるかの3つの選択肢しかなかった。
たとえクロスを上げられたとしても、ボックスの中には相手DFにガッチリとマークされた巻と深井もしくは谷澤では期待する方が難しかった。そこで中盤の選手なりSBやCBの選手が上がってくるなりすれば可能性を見出すことができたかと思うが、点を取ることよりも取られないことに重きを置いたサッカーではそれは叶わぬことだった。週休2日制によりボールを受けるための走りに必要な体力を持ち合わせていなければなおさらであった。
そして結果的にどうなったといえば、ボールはいつも横パスかバックパスだけで、手詰まりになるとすぐに前述の様に自陣の奥深い位置から相手陣内に対してボールが虚しい放物線を描きながら放り込まれ続けた。
以前、FIFAクラブワールドカップの試合でリバプールの試合を観戦する機会に恵まれたことがあったが、そういえば確かにあの日のリバプールも最終ラインから相手の裏を狙ってロングボールを蹴り込み、そこに向かって選手が走り込んでいた。リバプールFCでは、そこに走りこむ選手の世界最高峰のスピードとパワーでダイナミズムと得点の匂いを生み出していたが、残念なことにわれわれはリバプールFCではなくここはプレミアリーグではなかった。
では、この様なプレーしかできないチームになってしまったのは、ミラー監督の手腕だけの問題かといえばそうではない。「自信に裏打ちされた狡猾さ・的確さ」を持った選手を補強できなかったフロント。監督の求めるこのふるまいを表現できなかった選手たち。練習量で不安を払拭したい選手たちに対して、あくまでも休暇を取り続けた監督。そして当然の帰結として試合で結果を出せないという現実。この悪循環こそが2009年シーズンにチームの戦力低下と最下位という最悪の結果を招いた原因だ。
確かにミラー監督を解任しなければ、もしかすると降格しなかったかもしれない。だが、チームの土台がどんどん損なわれていく、そんな状況を見て見ぬふりをすることができず、三木社長をはじめとするフロントが「決断」したことは私は非常によく理解できる。
1年前にはあんなに噛み合っていた歯車が、翌年には互いを傷つけ合って壊れていく。悲しくもあるが、改めて現実の厳しさを思い知らされる。
しかしグレッグとは何だったんだろうか。
4. 昼田強化シニア・マネージャー
2009年8月、昼田SMは移籍ウィンドウが閉まる8/28の直前の8/24に、セルティックに所属する水野の獲得交渉の為単身渡英した。
ミラー監督の電撃解任後、コーチの江尻篤彦氏が監督に就任したが、監督就任後の戦績は2分2敗と監督交代の契機を降格圏からの脱出に生かすことができず、クラブもサポーターも後がない状況に追い込まれ重苦しい空気に包まれていた。そんな折耳に入った昼田SMの軽率かつ不可解な行動に誰もが眉をしかめたに違いない。
昼田SM(シニア・マネージャー)は、2008年シーズンの奇跡の残留劇を演出した張本人であった。
開幕11戦未勝利という惨憺たる結果に終わったクゼ監督に代わり、リバプールの現役ヘッドコーチという要職にあったミラー監督を招聘。シーズン中の追加補強により深井・戸田・早川・根本を獲得し、彼らが期待に違わぬ活躍をすることでジェフ千葉は文字通り「奇跡」と言われる残留を果たした。これらすべては昼田SMの手腕によるものであった。
だがその後昼田SMは次々と過ちを犯してしまう。戸田の解雇、早川の完全移籍失敗、彼らに代わる補強として中後(佐伯)・福元を獲得するも根本的な問題の解決を見送った。しかも新体制発表会の席では「09年ということで、その段階で非常に自分自身が『ワクワク(0909)』をしていたので、語呂合わせで『ワクワクシーズン』ということで」と緊張感のないコメントを残している。
シーズンに入り、チームは大方の予想通り残留争いに巻き込まれ、しかも監督交代直後移籍期限が刻々と迫るなか、「最終ライン」と「中盤の底」そして「点の取れるFW」と補強ポイントが誰の目から見ても明らかであったにも関わらず、メンバーが最も充実し、さらに7/15に太田を獲得したばかりのサイドのポジションの水野を獲得する為に、前述の通り昼田SMは単身渡英した。
1年前、次々と名ではなく実を取った補強で次々と選手を獲得した同じ人物とは思えない行動だった。
この一件以降、三木社長と昼田SMとの関係は急速に冷め、翌月の9/18には遂には強化シニア・マネージャーの任を解かれるはこびとなった。
私は、この時昼田氏解任に関するリリースがあったが・なかろうがどうでも良いと考えている。
シーズン終了間際に淀川前社長が唐井GMを突如解任し後任に昼田SMを据えられ、(レギュラー選手のうち5名がチームを離れる不幸もあったが)昼田新GMが新チーム十分に練る時間と環境がない中、選手が掻き集められていったあの異常事態に対する反省として、神戸新テクニカル・ディレクターにチーム状態の分析と新戦力獲得の為の2ヶ月間の時間が与えられたことは、組織が正常に機能している証左であると捉えている。
2008年の奇跡の残留劇のまばゆさに全てが覆い隠されてしまったが、昼田SMが生まれた経緯と、その後の無理により蝕まれて行くクラブの根幹。そして何より昼田SM自身も被害者であることを私たちは忘れてはならない。
(今度こそ後編に続く。ご意見・お問い合わせはtwitter の@atsushis アカウントまで。)
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